母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?

帽子が消えた。
こないだ被って出かけて汗かいちゃったんで、帰ってきてから窓辺に置いておいたら
忽然と消えてしまった。
「あれ?仕舞ったんやったっけ?」と思っていつも仕舞ってある所を見たけどやっぱりない。
はて?どこ行ったんやろか?神隠しか?
家の中にないってことは風で飛ばされたんかなぁ?
そんな飛ばされるようなとこに置いてないねんけどなぁ。
おっかしいなぁ。。。





『帽子』 西条八十
母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?
ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、
谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ。


母さん、あれは好きな帽子でしたよ、
僕はあのときずいぶんくやしかった、
だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。


母さん、あのとき、向こうから若い薬売りが来ましたっけね、
紺の脚絆に手甲をした。
そして拾はうとして、ずいぶん骨折ってくれましたっけね。
けれど、とうとう駄目だった、
なにしろ深い谷で、それに草が
背たけぐらい伸びていたんですもの。


母さん、ほんとにあの帽子どうなったでせう?
そのとき傍らに咲いていた車百合の花は
もうとうに枯れちゃったでせうね、そして、
秋には、灰色の霧があの丘をこめ、
あの帽子の下で毎晩きりぎりすが啼いたかも知れませんよ。


母さん、そして、きっと今頃は、今夜あたりは、
あの谷間に、静かに雪がつもっているでせう、
昔、つやつや光った、あの伊太利麦の帽子と、
その裏に僕が書いた
Y.S という頭文字を
埋めるように、静かに、寂しく。